風景も、私自身の記憶も、風化が進んでいる
九十九里浜を起点に平坦な土地が広がる大網白里市。東金市と茂原市の間に位置し、外房線が東京に乗り入れるアクセスの良さもあって、ベッドタウンとしてのまちの表情も持つ。この大網白里市を拠点とする不動産会社が大里綜合管理だ。不動産管理・仲介等を事業内容とする会社だが、その多彩な地域貢献活動で広く知られている。
■大里綜合管理webサイト → ●
社員の働くフロアーが学童保育のスペースとなり、お昼のコンサートなどに地域の人々が会社に集う。ワンデイシェフシステムを取り入れた「コミュニティダイニング大里」は食を通じた団らんの場となり、震災後はなんと70パーセント節電も達成した。こうした地域貢献活動を展開し、多様な地域コミュニティを結びつけている、ユニークな不動産会社。「その瞬間に何ができるか」を合い言葉に、大里綜合管理が東日本大震災復興支援に動くというのは自然なことだった。
震災直後から始められたボランティアは週一回のペースで行われ、あれから3年以上経った今も月一回のペースで東北へのボランティアバスを走らせている。その数、この日で実に149回を数える。大里の野老(ところ)真理子社長は90回ほどになるというから驚きだ。私は今回で7回目の参加となる。
ボランティアバスは、前日夜に大里綜合管理を発って、朝、宮城・岩手に到着(福島方面の場合は当日4時頃に出発)。現地で活動するとともに、被災の現場を巡り、その日の深夜に大里に戻ってくるパターンが多い。
そのボランティア参加費は1人わずか3000円。
集めた参加費はガソリン代と高速代、バスのクリーニング代に充てられる。ドライバーは大里の社員たちで、このボランティアバスのために中型免許を取得した社員も多い。儲けを考えたらとてもできる金額ではない。しかもバスのクリーニングは障がいのある人たちに参加してもらい、賃金確保に繋げるようにしているという。地域のあらゆるニーズ、課題を結びつける。これも大里流である。
5月17日、21時55分に出発。
大里スタッフのドライバー2名を含め、総勢16名の参加となった。地区のご近所同士、ご夫婦で、あるいは一人でと、老若男女多様な方々がバスに集っている。その中でも驚かされたのが79歳の農家のおじいちゃんが
「草刈りならできる」
と、参加されていたことだ。
重労働はできなくとも、マッサージや音楽演奏、或は被災した方のお話を訊くということでもいいし、現地の様子を見て訊いて、知人に知らせるのだっていい。「自分にできること」を「誰かのために」に繋げる橋渡し役として、このボランティアバスがあるともいえる。いや、それは復興ボランティアに限った話ではなく、大里綜合管理の地域活動のあり方自体がそうなのだと思う。
今回の行き先は岩手県釜石市の鵜住居地区。釜石市は北に大槌町、南に大船渡市に隣接した人口約3万7000人の地方都市だ。その釜石市の中心部から7、8キロ北上したところが鵜住居地区で、人口6600人余りのうち、実に580人にものぼる人たちが亡くなったり、今も行方が分らなくなっている。
この鵜住居地区へのボランティアを企画したのは、この日コーディネーターを務める大野英雄さんだ。勉強会の席で、たまたま大野さんが鵜住居で歯科医を開業している佐々木憲一郎先生が出逢い、現地の状況を知ることになった。
佐々木先生は鵜住居で自らも被災しながらも、津波を被ったカルテを探し出し、泥まみれだったのを手作業できれいにしていき、遺体の身元照合というたいへん辛い作業を率先して行われてきた方だ。
見た目では判別できなくなった遺体を照合するのには、DNA鑑定は有効な識別方法だが、これが本人であるという確証の得られたDNAサンプルが予めなければ、DNA鑑定をしてもその結果が100パーセント合っているとは断言できない。一方、歯形も一人ひとり形が違うため、その生前のカルテと一致すれば、それが識別の決め手となる。
先生は遺体と、そして遺族の悲しみと向き合いながらも、亡くなられた方のお身体を遺族の元に帰してあげたい一心で、ずっとその作業を続けてこられたのである。
「先生のもとにコミュニティができてきた。
先生は歯科医として独立してますから、
別の場所に行けちゃうんです。
・・・なぜ先生は(鵜住居に)残ったのか」
ちょうど佐々木先生の活動をまとめた本が出版され、先生の携われている鵜住居地区復興まちづくり協議会による農園プロジェクトが進んでいることもあり、現地へ行ってみようという運びになった。残念ながら、佐々木先生は学会があるため私たちとすれ違う形で東京へ。今回はお会いできないものの、協議会活動のプロジェクトの舞台となっている「にこにこ農園」で草取りをするのを主要なミッションとして、一行は鵜住居へと向かった。
◆
日付が変わって5月18日。
一関に入る頃には夜が明け、花巻から遠野へと、田園風景の中を一路海辺のまちへとひた走る。車窓を流れる美しく光を湛えた新緑の農村風景を見つめながら、
「山が笑う。
ほんと、日本の原風景だよね。
どうやったらこんなに綺麗に保てるのか。
自分のとこだけじゃこうはならないよね」
と、野老社長は呟く。
仙人峠の長いトンネルを抜けると、市街地に向かってだらだらと長い下り坂が続く。東北道の走る内陸から太平洋に向かって走ると、必ず峠がある。それを越えると下り坂となり、行き着く先に三陸海岸の街がある。それまで和やかな田園風景だったのが、下り坂のある地点から津波の爪痕が目に飛び込んでくるようになる。否応にも三陸の地形というものを意識させられる。
釜石は、市役所のある中心市街地まで来ると、その被害の様子をはっきりと確認することができた。建物と建物の間が歯抜け状態になり、建物の基礎部だけになったところには雑草が生い茂っている。
一方で、新しく建て替えた建物も見受けられる。
今回、私は一年ぶりのボランティアバス参加だったが、見える風景からは被災のリアリティは当初からは比べようも無いほどに失われていた。被災地に足を踏み入れた当初は、目の前の破壊されてしまった街の惨状に驚愕し、恐怖心を抱かされ、想像を遥かに超えている自然の力にただただ圧倒されるばかりだった。それに対してカメラを向けてもいいものなのかという強いためらいすらあった。
が、現在目に映るものは、風景としての風化だった。新しく建て替えられた建物や、生い茂る雑草が、あの時のことをぼやかしているようにさえ見える。そこに私自身の記憶の風化が重なる。
市の中心部から国道45号線を北上し、大槌湾の南側に位置する鵜住居地区に入った。ここは一帯が雑草の生い茂る平地になってしまっていた。ここにかつては住宅が立ち並んでいたとは・・・。その平地の所々に、うずたかく盛られた土は、土地を嵩(かさ)上げするためのものだ。
ここで、鵜住居地区復興まちづくり協議会副会長の古川さんと合流。周辺を案内していただき、「絆ハウス」で協議会の活動の概況を教えていただいた後で、にこにこ農園へ行く段取りだ。
まずは世間にいう、いわゆる「釜石の奇跡」の現場を辿る。
避難訓練を繰り返し行っていた鵜住居小学校と釜石東中学校の、避難した児童生徒全員が津波の難を逃れ、釜石の奇跡と呼ばれている。
「子どもたちはここまで逃げて行って助かった」
と老人福祉施設を指差す古川さん。そこから海岸へ向かって下ったところに「ございしょの里」がある。より海辺の校舎から、当初はこのございしょの里まで子どもたちは逃げてきた。
「ございしょの里はだめ。崖崩れが起こって」
と、そこからさらに上の施設まで逃げ、助かった。ございしょの里は浸水した。
が、古川さんはこう言う。
「奇跡が全面に出ている。犠牲になった方の遺族がイライラする。大人は亡くなっているんです。奇跡じゃなくて、訓練の賜物。事務所に残った人は亡くなったんです」
そう、奇跡としてスポットライトを浴びている事実だけ見ては、その影にある事実が見えない。
『先に帰宅したふたりの小学生と、最後まで小学校に残った事務員の女性が犠牲になったことは、あまり知られていません。また、実際には「もっと高い場所に逃げろ!」という消防団員の指示がなければ、多くの児童・生徒が指定された避難場所で津波にのまれていたかもしれないのです』(「泥だらけのカルテ」より)
さらに、釜石で防災教育を主導された片田敏孝教授も、その著書で、こう語っている。
『2004(平成16)年から釜石市の小・中学校で先生方と共に取り組んできた津波防災教育の教えを、現実の津波を前にして、見事に実践してくれた子どもたちの素晴らしいがんばりによるものといえます。そういう意味では、今回の避難劇は「奇跡」ではなく「必然」といえるのではないか』
一行は、そこから海岸線沿いに進み、根浜海岸へ向かった。