大里綜合管理・東日本大震災ボランティアバス釜石編2〜「地元の人が立ち上がって、初めて風化が溶けていく」。その決意を胸に

「ほんとのほんとの復興ができた時、涙します。今67ですから100歳まで生きないとな」

「ここは海って感覚がないんです」〜絆ハウスにて、鵜住居地区復興まちづくり協議会のみなさんと
「ここは海って感覚がないんです」〜絆ハウスにて、鵜住居地区復興まちづくり協議会のみなさんと

美しい表情を魅せる釜石市の景勝地、根浜海岸。

ここには、全優石(一般社団法人全国優良石材店の会)の「津波記憶石」建立プロジェクトにより立てらた石碑がある。


津波の恐ろしさを後世に伝えるための意義のある活動だが、

 

「碑を立てられる気分じゃない」

「寄付して事業を持ってこようという人、

 いっぱいいます。名を売って」

 

という地元の声があると古川さんは指摘する。

どうしてもこのような活動は捉え方次第で良くも悪くもなってしまう。この後、絆ハウスでもお話を伺うことになるが、その中でも同様のことを感じることがあった。

 

大里一行は、鵜住居地区復興まちづくり協議会の拠点となっている絆ハウスに移動する。絆ハウスでは協議会の皆さんにあたたかく出迎えてもらった。

 

「この建物も無くなる。

 でも、人が集まるのにすごく貴重なんですよ。

 空手の練習もここでやります」

 

「区画整理はスムーズなんです。

 供覧(=多くの人に見せること)やって丁寧に進めていってます。

 まず街ができるか、家ができるか

 ……やっぱみんな家からやりたいんです」

 

「行政と協働してると言ってますけど、

 影ではケンカですよ」

 

「1週間に3回会議をしています。

 20時からと18時半から。

 歯医者さん(=佐々木憲一郎先生)の営業時間を踏まえてね(笑)」

 

時折ユーモアを交えながら、協議会の今の活動をご説明いただく。

すると大里綜合管理の野老社長が、

 

「地震が起こってからの動きが早いと思うんですが、

 まとまれた理由はなんですか?」

 

と尋ねると、

 

「全員で(合意形成は)できない。

 住民合意は無理です。住民総意くらいにしようと」

 

「地元の人たちが話し合いの場に来てくれている。

 ベースづくりはやってきたかな」

 

と、協議会のスタンスのもと、地元の人たちが話し合いに参加できる土壌が醸成されているようだ。ただ、こうも話されていた。

 

「有名大学からなにかやりましょうかと随分声を掛けられましたよ。

 でも、どのくらい真剣になって来るか。

 3年仮設(住宅を)貸すから住んでみてと言いました。

 半年でも1年でも(ここに)いればね。

 意見は訊いても、(活動は)任せません」

野老社長はこう云う、

 

「印象として『明るい』んです。

 お会いした方々が。なんでだろう

 ……その瞬間立ち上がった人たち。

 それができるのは、『前からやってた方たち』なんだろう。

 ここまでできているところはないですよ。

 ぜひ、見続けたい。

 (立ち上がれたのは)子どもたちが(津波から)

 逃げられたからと思ってたんです。

 (でも)犠牲が(釜石で)一番多いところだったんですね」

鵜住居地区の航空写真を見ながら説明いただく
鵜住居地区の航空写真を見ながら説明いただく

そう、ここ鵜住居地区は600人近い犠牲者・行方不明者を出してしまっていた。

 

「ここは海って感覚がないんです。

 川で泳ぎましたし。

 ここって、根浜の海岸は見えないんです。

(震災で建物が流されたため)今だから見えます。

 防潮堤もありました。

 今度の津波はまったく(襲って来るとは)考えてなかったですね。

 3キロ津波が川を遡(さかのぼ)りましたから」

そして、協議会副会長の古川さんの「その日」を尋ねた。

 

「覚えてません」

 

・・・・・・僅かな沈黙の後、記憶を咀嚼するかのように、古川さんは語り始めた。

 

「議会中に地震がありまして、

 4階建ての市庁舎なんですけれども。

 ひと晩、議会にいました。

 津波は中から見てました」

 

「ここ最近になってやっと自分のことが考えられるようになったんです。

 少しは思い出せるようになったかな。

 でも家に帰って布団にはいると(思い出す間もなく)すぐ寝ちゃいます」

 

その言葉だけでも、あまりのできごとの大きさと、そして復興に向けて奔走する日々が伝わってくる。

 

「私は、ほんとのほんとの復興ができた時、

 涙します。

 まちづくりができました、

 と報告した時に。

 今67ですから、100歳まで生きないとな。

 20代、30代は絶対必要です。

 復興した時に俺たちの年代になる」

 

「地元の人が立ち上がって、

 初めて風化が溶けていく」

大里一行は話を伺った後、絆ハウス周辺や慰霊室の清掃を手伝った
大里一行は話を伺った後、絆ハウス周辺や慰霊室の清掃を手伝った

野老社長は呟く、「地域のありのままの感情」がここにあると。

過剰な報道にも問題がある。変な人が地域に、コミュニティに入らないようにとする一方で、そういうあり方だと新しい人も入れない、と。

 

私も今回地元の人たちの声を訊いて、片田教授に対しても批判的な声が挙がっているのには正直驚いた。奇跡と呼ばれる結果があった一方で、実際には多数の大人が亡くなった「悲劇」がある。奇跡ばかりにフォーカスされがちな報道と、地元の悲しみとは乖離し、溝が広がってしまったのかもしれない。ただ、片田教授がやってきたことは、防災の本質を捉えたものであると私は今でも思う。先の著書、「子どもたちに「生き抜く力」を 釜石の事例に学ぶ津波防災教育」(フレーベル館刊)にも、

 

生き延びた後の対策ももちろん重要だが、

 

『防災の目指すところは「人が死なない」ということ』

 

そのためには

 

『自分の命を守ることに主体的になる』

 

ことだと指摘されている。加えて、

 

『自分の命を自分で守るということすら他人にまかせているように思われます』

 

と現状を危惧されている。そのうえで、これから必要とされるのが、

 

『「逃げる」ことを地域文化として世代間で自動継承していくことで、あえて言葉で語らなくても、「地域知」として常識化していく(中略)それが文化です』

 

と、「文化」の重要性を説かれているのだ。

 

防災に限らず、地域づくり全般、風の人と土の人が「地域知」を共有できたのならば、そういう機会が創造できたのなら、そこは新たな文化の匂いが漂っているに違いない。