『房総カフェⅡ 美の遺伝子 —我孫子 手賀沼—』発刊によせて〜カフェガイド本らしからぬカフェ本を作ったわけ

本日、ついに納品となりました

Posted on 2016.4.15



元々子どもの頃から馴染みのあった手賀沼界隈に愛着があったのに加え、白樺派メンバーにして、後に民藝運動を積極的に推進した柳宗悦が我孫子で美への思索を深めていたという史実が、本作を生み出す大きな原動力となりました。

 

以前、『房総カフェ ―扉のむこうの自由を求めて―』で取材させていただいた、千葉駅前にある「豆NAKANO」の仲野さんの言葉が、柳の持つ哲学と非常に近しいことが、ずっと私の頭にこびりついていました。コーヒー豆を日々焙煎している仲野さんは、焙煎についてこうおっしゃっていました、

 

『コーヒー豆はバイヤーがテイスティングしていて、セオリーが出ています。その枠の中で焙煎すると、きれいに風味が出る(中略)持って行きたいところと違うところになることもあります。でも、そっちに教えられる事が多い』

 

柳は民衆的工藝、すなわち民藝における作為なき美を幾度も唱え、完全、不完全に囚われぬ自由の美について「畢竟無碍(ひっきょうむげ)」という言葉を紹介しています。どうも仲野さんの焙煎のお話を伺えば伺うほどに、柳の思想とパチッ、パチッと嵌っていくのです。

 

そして、コーヒーや「豆NAKANO」という場についておっしゃった言葉。

 

『豆という素材と、この場を、皆さんがどう使っていくか。それはフリーハンドじゃなきゃ』

 

これを訊いた時、そういうあり方の本を作りたいという想いが芽生えました。そう、読者のみなさんにとっての「フリーハンドな本」。その仲野さんの言葉と、柳の思想を辿り、そして私個人的なこの地の思い出を振り返るうちに行き着いたのが我孫子市・旧沼南町でした。

 

この地のありのままを、本という物として作り上げてみたい。この地の「自然体」「佇まい」「あり方」を、作為的に、こちら都合で極力いじりたくありませんでした。願わくば、手賀沼の水面の描かれた滑らかな曲線のように、流れるように心に溶け込んでゆく本にしたいと。

 

カフェの本ゆえにオシャレな内外観や美味しいグルメを各軒毎に必ず載せなくてはならないというフレームを作る、或は単に店の前で店主に立ってもらって「街や人との繫がり感」「作り手の顔が見える感」を狙う・・・というようなこちら都合の作為的手法を極力排除する必要があると考えました。そうでなければ、フレームや作り手の意図・作為の中に読者の皆さんを嵌め込むことになるのではないかと考えたからです(例外的に、三者の商いを同一記事で「流した」ノースレイクさん・イリさん・ソメヤファームさんの写真のみ「行商の日常」の脇で集合写真の撮影をしています。これは「伝わりやすさ」と「日常」を組み合わせた試みです)。

 

そのために、自由なフリーハンドな編集が必要と考え、編集方針の左右されない自費出版で作ると決め、台割…ページ数の割当や予め決められた構成もないままに現地に幾度も足を運びました。現地で見聞きし感じた事から、自然と本の形が見え始めていったのです。出来上がってみますと、カフェ以外のものも掲載されていますが、それでいいのだと思います。このありのままの姿こそが、この地の「美」であると思います。

 

これまでもカフェの本を作ってきましたが、あくまでもカフェは地域や人の魅力、美しさに気が付き、魅了され、想いを馳せる「きっかけ」「窓口」であります。ですからカフェそのものを崇めるつもりはありません。奇しくも、柳も「茶」に対して、茶自体を尊ぶのではなく、『日々の生活を美しく生きることが真の「茶」の道なのです』(『民藝』平成26年11月号より)と述べています。カフェというものを、ひとつのきっかけとして、この社会、世の中の普遍性が見出され、そこに心地良さ、美しさ、そして豊かさが佇んでいるならば、それこそ編集者冥利に尽きるというものです。そしてこの本が、心地よくあなたの美を呼び起こすきっかけになれば、これほど嬉しいことはありません。

 

最後に、取材に応じていただいた皆様、並びに我孫子市白樺文学館の稲村隆様、みんなのアルバム同好会の島昭子様には多大なるご協力をいただきました。改めて深く御礼申し上げます。

 

平成28年4月